茶碗蒸し

ひとこと

孤児 ファン・ホセ・サエールを読んで

水声社がだしているフィクションのエル・ドラードが何冊か手に入ったので感想を書いてみたいと思う。

まずはファン・ホセ・サエールの孤児から。

孤児―フィクションのエル・ドラード

孤児―フィクションのエル・ドラード

 

ファン・ホセ・サエールはアルゼンチンの作家で孤児は1983年に出版された。 

簡単にあらすじを書くと、

15世紀。孤児であるわたしは、見習い水夫として、インディアス探検船団に乗り込む。数人の仲間と現地調査のため陸地に上陸すると現地人に襲われ、わたし以外は皆殺しにされる。わたしは原住民につれられ、なぜか殺されず、原住民の村で暮らし始める。彼らは食人族である。彼らの殺された仲間も食われる。熱狂的に、トランス状態になりながら食べる。食べ終わると村全体が虚脱状態になり、やがて回復していく。回復したあとの彼らは紳士的で森の清き民のようにみえる。そして一年が過ぎ、彼らはまた食人行為をする。わたしと同じように捕虜をひとりだけとりながら。なぜ、彼らは人を食べるのかー

物語の構造としては、孤児=何ももたないものが異界=ジャングルに行き、また戻ってくるという形をとっている。アクションとしては前半の原住民に襲われて村に運ばれるところで終わり、あとは原住民、ジャングルに相対する主人公の思弁、哲学的な問答に終始する。それでもページをめくらせる力があるのは、なぜ彼らは人を食べるのか、そして主人公はなぜ食べられないかの謎がずっと残っているからだ。そしてこの謎は絶対に解けない。原住民の言語が完全にわからない主人公にには推察することしかできず、それは同時に読者が自分の結論を導く猶予を与えてくれている。

自分の推論はこうだ。

原住民たちは不思議な厭世観がある。そして彼らはそれに我慢ができない。世界から自分たちが切り離されているような感覚をどうにかして払拭しようとする。年に一度、人を食べることによってこれを無理やり打破しようとする。なぜ、主人公は殺されないか?彼は原住民にとって錨のような存在だと思う。食人という野蛮な行為に突き進みながらも捕虜を一人とることで、この行為を理性的な、制限された行為に仕立て上げているのだ。そしてその捕虜を丁重に扱い、保護することで彼ら理性を証明し、元の生活に戻る手がかりにしているー

 

読んだ後、呆然としてしまったのはこういった哲学、人生観を持った人間達がこの世のどこかにいたかもしれないという衝撃だ。自分の環境、時代とは違う。でも本当に違うといい切れるか。どこか原住民達が抱いているかもしれないこの世に対する不信感は自分の中にも確かにある。それを打破するとためにどんな手段をとることができるだろうか。そんなことを考えると出口のない長い廊下にいるような、そんな気がする。